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2012/10/21 (Sun) 現代サッカーの根源にある思想について

現代サッカーの根源にある思想について
       ー擬似的供犠、分身論、生の技法ー
                                      屋 繁男

定義 サッカーとはどのようなスポーツか

1、サッカーと供犠 
⑴ サッカーは擬似的狩猟行為である
⑵ ゴールは擬似的な供犠である
⑶ 供犠とは何か
  a、社会構造的側面
  b、存在論的側面
⑷ スポーツとは一種の供犠である
⑸ 様式化された限定戦闘としてのサッカー

2、分身論を喚起するサッカー
⑴ コナトス(現働的本質)とは何か
⑵ ヒューマニズムの行きづまりによる「病的な分身」の発生
⑶ ヒューマニズム(人間中心主義)の終焉
⑷ 分身論の本質=(肉体や魂は滅んでも身体は死なないということについて)
⑸ サッカーと分身論
⑹ 古代インドの「梵我一如」説という分身論

3、生の技法としてのサッカー
4、サッカーと即興性

⑴ 何故即興性が求められるか
⑵ いわゆるサッカー即興芸術論について

5、サッカーに基づく表象行為により日本社会の何が変わるか




現代サッカーの根源にある思想について
       ー擬似的供犠、分身論、生の技法ー

定義 サッカーとはどのようなスポーツか
 サッカーは、擬似的な狩猟行為によってゴールという擬似的な供犠行為に成功した数の多い方が最終的には勝利するという擬似的戦闘行為である。このゴールという擬似的な供犠行為と擬似的な戦闘行為という現代サッカーの不可欠な二つの要素が、単なる疎外からの解放とか遊びとかのレベルを越えて新たな生の技法(分身論)を喚起し、現実化するようなスポーツである。このような定義のうちにサッカーが世界の人々を魅了する要素が見て取れるであろう。以下説明を加えていこう。


1、サッカーと供犠
⑴  サッカーは擬似的狩猟行為である
 人類にとって狩猟時代、つまり旧石器時代はその歴史の圧倒的な部分を占めている。95%から、研究者によっては99%までがその時代に当たり、その間にヒトはサルから人間になった(狩りをするサル)と言われるぐらいの生物学的進化を遂げたのである。これに対し農耕の時代が始まったのはたかだかまだ1万年前、つまり100万年の人類史の1%程度にしか満たず、とても比べ物にならないのである。
ヒョウや熊に狩りたてられていたサルの一種ヒトが逆にそれらのどう猛な動物を獲物として狩りたてることになり、ここに強力な肉食獣が誕生したのである。それはヒトが狩猟行為を自らの文化として完成することによって成し遂げられたことなのである。農耕を初めて1万年位で狩猟を忘れるわけはないのである。
 モリス「サッカーの人間学」(P15)によれば食料を得る生存のための狩猟活動からいくつかの段階を経て、屠殺の伴わない近代球技が登場したと考えられている。そして近代球技の中でもサッカーが狩猟活動を最も表象しているものとなり今日の隆盛を迎えているというわけである。いわく「最終的な変遷の段階で、狩人がサッカー選手にかわり、武器がボールとなり、獲物がゴールに姿をかえた」(同上)のである。まず90分延長等場合によっては、それ以上断続的に疾走し続けるには強靱な体力がそして持久力が求められ、瞬時に効果的な動作を予測しチームメートと連携したプレイが求められる。これらのことを行うだけでもかなりの精神力が要求されるのだが、サッカーの最終目的ゴールをねらうシュートを打つ瞬間には太古の狩猟とは違って足で行うものだから特に正確な照準能力が求められることになる。
 他のボールゲームにおいてもボールは狩猟における武器としての表象的な意味を持ってはいる。ハンドボール、テニス等においてもシュートは象徴的な屠殺の意味を帯びてはいるのだが、その擬似的な狩猟行為としての装置と演出効果がサッカーに比べてはるかに及ばないと言って良い。

⑵ ゴールは擬似的な供犠である
 サッカーにおけるゴールほど、選手はもちろん観客も含めてこう言って良ければ不可逆的驚愕の世界へといざなうものは他のスポーツにはない。「ゴールの強度はシュートの速さと弾道距離、キーパーの跳躍力ではなく(野球やアメラグの測定可能な強度への固執)その瞬間スタジアムに走る「閃光」の光度によって測定される。それは驚愕を単位とする美的かつ詩的な出来事なのだ。」(サッカー狂い 細川周平 哲学書房P091 1989年)
なぜこのようなことが言えるのか、それはサッカーのゴールが他のボールゲームにもあるところの擬似的な屠殺性と擬似的な供犠性を圧倒的に凌駕して持っているがために外ならない。供犠とは何かは後で考えることにしてサッカーのゴール=(屠殺)がなぜ擬似的な供犠を表象しているかについて考えてみよう。一部には狩猟行為と供犠とを明確に区別する説もあるが、両者の習俗が一体化へと向け収れんする事実を忘れてはならない。すでに直接に狩猟行為を行う狩猟者において、獲物の殺害は時として供犠となっている。祭壇のそばの生け贄の屠殺でなくても供犠はあるのである。サッカーはこのようなかつて古代狩猟者自身が対峙していた、こう言って良ければ、供犠の世界からの表象を擬似的狩猟ゲームであるボール競技という形式で上手に取り入れ、最もメジャーなスポーツとしての地位を不動のものにしている。注1

⑶ 供犠とは何か
 a、社会構造的側面

 デュルケムをはじめとしたフランスの社会学者たちによれば、供犠とは儀礼の一つで人間間の絆を強め、また、諸々の集団の共同体的結合を創り出すものであると考えられた。つまり供犠はそれを執り行われる人間の間での共同体的な絆を結ぶという機能を担った社会的な行為と考えたのである。「文学者」であるバタイユも、この共同体的構築を促すという供犠の機能そのものの重要性を認めている。「一番最後の説明(供犠が人間の共同体的結合を創設すること-筆者-)は謎を正確に位置づけていることは言っておかなければならない。それこそが、人間の全実存の鍵なのだ」(有用性の限界)
 さてここまでがフランス社会学的な知の地平ないしは近代思想の地平と言ってよい。ここからは現代思想の地平をバタイユの言説を借りて展開してみたい。ところで供犠という機能が実行されるためには動物ないし人間の死という原因があってこそ供犠という機能の結果が実現されるのである。では、社会学者ならぬバタイユは「死」というものをどのようにとらえていたのであろうか。
「我々の誰もが、狭苦しい孤立状態の中に押し込まれているようなものである。その者の目には、自分自身のほかには何も重要なものはない。彼は、外部からやってくるものを感じ取りはするが、往々にして、そこから自分が受けた好都合な印象とか不都合な印象とに還元してしまう。ちなみに、生来のこの孤独が根底的に終わる唯一の時とは、死のときである。この死は、幻想が直面する唯一の深刻な否認であるといえる。というのも、私が死ぬとしたら、世界は、それを反映している私の精神に還元可能であることをやめてしまうからである。あらゆるものが私一人が重要なのだと言っていた。しかし、死はそれが嘘だということを私に通告する。なぜなら(その時)、私は全く重要ではなく、世界こそが重要だからだ。(「有用性の限界」)」、
 以上の言説は、デュルケム等の時代とは違った現代の超孤独者、他者と共有する何物をも持たずに自閉的な時空間に依拠する単独者と死の関係が見事に表現されている。
 そしてバタイユの考える死とは以下のようなものと言えるであろう。即ち、自己の内に自閉し全能の王国を築こうとしていた人間に、その有限性を思い知らせる決定的な要因となることである。いわば最強の自己肯定から最弱の自己否定へのどんでん返しにより、自閉者を外部の世界へとその注意を開かせるほとんど唯一の契機と考えているのである。孤独な自閉者バタイユはこの供犠という死を契機として外部の世界へと身を翻して志向し変身していくのである。
 それまでのフランス社会学の供犠論とはちがってバタイユは以上のような経過を見すえて、はじめて供犠の機能の最終的な役割、つまり「死」を通じてのある種の「共同体」の成立の真の意味に至るのである。ここに、フランスの社会学者達とはちがった、また神秘主義者達ともちがった彼の思想のリアリティがあり、偉大さがあると言ってよい。

  b、存在論的側面
 先程まで展開した供犠論はフランス社会学の伝統の成果の上にバタイユが自己の主知主義的なあるいは思想的なと言ってよいような内容を付け加えることによって完成させた論理である。
 これに対し、一方バタイユは存在論的な発想からも供犠の説明を試みている。
 「供犠とは何か その1」での論理展開は、こう言ってよければ構造主義的な、その意味で社会科学的なものとなっていると言っても良い。しかし一方でバタイユは供犠を存在的な観点から以下のようにも説明している。つまり、供犠は「事物」になってしまった人間やそれに従属することになってしまった動植物等を、もう一度その本来の性質つまり「聖なるもの」の世界に引き戻すための儀礼だというのである。
 人間は子牛や小麦を事物と化すことによって自己もまた事物となってしまい、この事態を「失墜状態」と言わずしてなんと言うのかというバタイユの重い問いかけを我々はどのように受けとめるべきであろうか。
 思うにこれを端的に過去に向かっての、ないしは過去を基点にしての「分身論」と言えるだろう。つまり彼はここで失墜状態から人間や動物をそれらの本性に戻し変化させ、いわばそれぞれの新たな身体を作らんとしているのだから一種の「分身論」と言っても良い。ここにおいてバタイユは、どこまで意識的にかは別にして実に刺激的実践的な哲学的課題に突入したと言って良い。

⑷ スポーツとは一種の供犠である
 猿科の一種としてのヒトが人間になる前、本能のおもむくままに身体運動を行っていた。捕食や生殖はもちろん哺乳動物でもあるから遊びという運動行為もあったであろう。いまだ「事物」の中に閉じ込められることもなく自然の一部として「水の中に水があるように」存在していたと言えるだろう。
 しかし、外界に自然に存在していた「物」を客体として認識し始めそれらを次々に「事物」として人間(もはやヒトではない)に従属させることとなった。そしてその結果の反映として自己意識が登場してくる。さらにそれが進展すると現代の人間の我々が持っているのとほとんど変わらない「自己」ができあがる。しかも人間はこの「自己」をも客観化し対象化し、「事物」の中に封じ込めてしまうこととなる。
 このように諸物や自己をも「事物化」して有用性の追求が突き進むと、人間の身体運動は、ヒトの時代に持っていたところの性格も大きく変わらざるを得なくなる。即ち、身体運動は効率的な労働へと集約され、有用性の下にヒトの時代にはあった遊びやオス同士の闘争等は一種の消尽とみなされ日常的には隠蔽されることとなった。
 さて、人間はすべての物だけでなく自分をも事物と化し、そのために生命としての泉を涸渇させてしまっていることは理解できたことと思う。そこで、自身が本来持っている動物性から切り離された状態に終止符を打ち、それを取り戻そうという考えに至るのは当然であろう。この場合には「すなわち労働という従属関係において人間がそうである状態を止めること…。」(バタイユ)であるが、そのための契機として供犠が必要とされるのである。そして「事物化」の下に隠されている、ヒト時代の運動行為、諸々の遊びやオス同士の闘争等を、労働とは別に行うこと自体が「供犠」と言ってもよいのである。つまり「事物化」された世界の一部にわずかではあるが風穴が開いたとも言えるし、「事物化」された世界をわずかに横滑りさせたとも言えるであろう。また本来の聖なる世界を垣間見せたとも言えるであろう。
 スポーツの世界ではこの行為を現実には選手が行うのであるから、彼らを供犠執行者と言ってもかまわないだろう。けだし、今述べたように彼らのプレイは「事物化」された世界に一部にしろ風穴を開けたりそれを横滑りさせたりする力を発揮するからである。
 そして時には「俗なる世界」を突き抜いて、「精神世界」と「共振、共鳴」(稲垣正浩 2010,01,18日記「『内奥性』と『内在性』を取り戻すということ」)させて観客をしばし興奮と消尽の世界へと釘付けにするのである。

⑸ 様式化された限定戦闘としてのサッカー
 サッカーが擬似的なゴールを決めることに喜びを見出すだけの全く儀式的狩猟であれば自チームが何点(獲物=供犠)上げたかを敵チームと比較する必要はないはずである。しかしサッカーはゴールの数を争う競技でもあるのである。擬似狩猟集団のゴールをいかにうまく上げ擬似的供犠の効果を上げるかという当面の興味もさることながら、その数の争いにおいて勝利するということもこれに劣らず、いやそれ以上に選手はもちろん、サポーターにとってもさらなる関心事なのである。従ってこっちがすばらしいゴールを決めても一点で、相手が偶然に入ったようなゴールで二点取った場合は、当然こちらの負けである。しかし、このことが逆になればこちらの勝利であるが、この偶然の二つのゴールは、カミから与えられた擬似的な供犠としての効果があり、チームはもちろんサポーターも含めてより高い共同体の結束効果として作用するであろう。つまり必然的な経過をふんだすばらしいゴールであろうと、偶然のゴールであろうと獲物という点において同等の重みを持たされるが故に、勝利つまり点数にこだわるのであるが、そのためにかえって一点の重み、つまりゴールという擬似的供犠のある種神秘的な重みを増す結果となっている。つまり、擬似的狩猟によるゴールという擬似的供犠を必然、偶然において生み出す行為とその数を競う擬似的戦闘行為が抜群の相乗効果をもたらしていると言って良い。
ところでルール化された限定戦争ではあっても勝つために反則はもちろん、単なる暴力行為と言っていいようなプレイがサッカーの中には時々見られる。当然審判がおりイエローカード、場合によればレッドカードを出すのであるが、一流の審判でも見逃してしまう悪質なラフプレーは後を絶たない。それ程勝利が大切なのである。
レアル、マドリードとバルセロナのクラシコの試合やセルテックとレンジャースのオールドファームなどは民族や宗教、社会的階級を代表してクラブ同士が対決するわけだから、代理戦争と言われたりもするのである。また、周知のように韓国が日本に対して持つ意識も、本当のところはどうであれ、民族教育によって不倶戴天の敵としていることは確かである。
日本の方は実におっとりしていて、Jリーグができる頃ぐらいまではサッカーを単にスポーツ、遊び位にしか考えていなかったが、Jリーグ創設後日本代表が一定の力をつけ韓国よりもFIFAランキングが常に上にある場合が多くなってきた。
この点に関して注意を喚起しておきたいことがある。戦前の日本統治時代より朝鮮半島ではサッカーが盛んで日本本土のチームにひけはとらなかった。戦後独立したが朝鮮戦争の荒廃の中で、日本に勝てるものはサッカーしかないという状態の下でハングリー精神でアジアのトップチームとしてがんばってきたという観点の大方の妥当性とそのものの見方の表皮性である。その見方の表皮性とは、つまり韓国人とサッカー選手達は決して日本に対する対抗意識だけでサッカーの道を極めてきたのではないということである。彼ら韓国の選手は擬似戦闘行為に勝つことにも全力を挙げたであろう。しかし、それと相まってゴール=(擬似的供犠)を上げるということが、自分にとって自己のチームにとってどれ程大切なことであるかを、日本の選手たちよりは直感的にしろ、はるかに知っていたにちがいない。つまりゴール=(擬似的な供犠)を上げることが自己の共同体の結束に必要かを知っていたように思われる。供犠のもう一つの重要な意味、事物をその本性に戻すという重要な意味を直感的にしろ知っているからに他ならない。それ故に韓国の選手達は、吾々サッカーの素人が見てもシュートを打つべき時、まずここで打つしかないと思われるポイントで打っている。これに対し吾日本のJリーグや代表選手は、未だにここで打つしかない時にも打たず、よけいなパスを出しいわばシュートを先送りにしてチャンスを逸している。これを要するに日本人選手にはゴール=(擬似的な供犠)に対する思想が欠落していると言えそうである。まだまだサッカーに関しては韓国選手に学ぶべきである。
 ユーラシア大陸の東端とはいえユーラシア世界の一部なのだから韓国人は供犠というものを日本人よりは知っているのかもしれない。島嶼部にある日本は諏訪大社の祭礼等例外を除いて動物による供犠はない。恐らく古代には一時日本列島にもその習慣は入ってきたであろうが、その後すたれたものと思われる。注2このことは世界との差異となり日本異質論の根拠ともなっている。これを文化論的に克服しようと思えばサッカーのゴールのような擬似的な供犠を知り抜き実際にあったないしは現在もある供犠を我々のイメージの中にはめ込みそれでもって知の欠如を埋め、さらにはそれを生の技法として補うしかないのかもしれない。


2、分身論を喚起するサッカー
⑴ コナトス(現働的本質)とは何か

 スピノザによれば「すべてのものは自己の及ぶ限りそれ自身の存在に固執しようと努力する」(「エチカ」第三部、定理六)情動を有している。そしてこの自己保存のための努力をコナトスと呼んでいる。ところでこのような情動は自己の生物学的な保存、つまりありきたりな生理的欲望だけでなく、あらゆる知的な、場合によっては哲学的な情動はもちろん、他の存在に対する攻撃性と共感にも及ぶことになろう。けだし、「自己の及ぶ限り」ということであるから、あらゆる人間の振る舞いとあらゆる文明化された現像に及ぶことは当然である。
これを要するに、単一の自然原理から生じる一元論的な説明であると言えよう。つまり神のような超越的な存在も、いかなる前提とされる規範や秩序も前もって別にあるわけではないからである。
このスピノザの「コナトス」と似た用例としてニーチェの「力への意志」がある。しかし、ニーチェいわく、「最も明瞭に示すことができるのは、あらゆる生き物は、自己を保存するためだけではなく、より以上のものとなるために、それがなり得る実際のことを行う、ということである(力への意志六八八番)」。また「生き物はとりわけその強さを解き放とうとする──生そのものが力への意志である。自己保存は、間接的で最も頻繁に生じる事例の一つに過ぎない」(善悪の彼岸一三番)。さらに又、「自分自身を保存しようなどとする願望は困窮状態を示す徴候であり、力の拡大を目指し、それを望むあまり自己保存を危険にさらし犠牲にさえするという本来的な生の本能に制限が課されていることを示す徴候である」(「悦ばしき知識三四九番」)と述べている。
即ち、スピノザのコナトス論との共通性を認めながらもニーチェから見たその限界を批判しているのである。しかし、スピノザはコナトスは「受動的」な情動から「能動的」な情動へと変化するというふうに説明している。つまり先程述べたような、あらゆる人間の振る舞いやあらゆる文明化された現像に及ぶわけであるから、コナトスが単なる自己保存のための努力だけでないことは論理上明らかである。
それどころか、ニーチェの及びもつかない次のような考えが可能となる。スピノザは「人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない。(定理19の証明)」と述べている。その場合大切なことは、私の身体があるならば、それに関する観念も「無限知性」の中にあると考えられることである。そうであるならば、吾々が現に今ある身体以外にも無限の物体世界(他の人間、動物、植物、石)をも吾々の無限知性の対象とすることが可能となってくる。このようにスピノザの「神(自然)の思考」「汎神論」ないし「アニミズム」とでも言うべきものが働いているのであろう。そして、この無限知性に基づいてそれこそ思考すると、多くの物体にそれぞれ観念があり、それらは私個人と同様な精神であるということになろう。ただそれらの精神は物体の観念であるからそれぞれの物体だけと対峙せざるを得ず、その結果無限にある私の精神は特に連絡を取り合うこともせず、時々さらには他の人間の中に動物の中に風景の中に私の精神と同じものを垣間見ることができるだけである(スピノザの世界 上野修 講談社新書 2005年 P192)。
言うなればこれは一種の分身論と言ってもよいだろう。つまりあらゆる物体の中に自己と並行する精神を見て取ることが可能だからである。

 ⑵ ヒューマニズムの行きづまりによる「病的な分身」の発生 
 分身現像と言えば近代に入って個々人が孤立し、不安やさらには無力感にさらされて自己のアイデンティティの基盤が失われ、他者との関係を欲しながらも、その間の壁を乗り越えることができず、自分自身の内へと閉じこもり、さては自分自身への関心こそ人生と考えるに至る自閉的状況が分身というある種病的、ないしは病気そのものを作り出していることはよく知られている。これらは、現代社会で今述べたような個人の意識構造と相まって写真、映画等の複写文化が出現し人間のリアルな像が出現し、複写された像、特に映像によって表された自己は実際に生きている自己以上に存在感(リアリティ)を持つに至ったことと無関係ではあるまい。
しかし、人間が死んで後も存続すると考えられていた古代からの霊や魂というもの、又生きている人間から時には離脱して他者に取り付くような生き霊というような存在も分身と言えるものであろう。
思うに人間は今ある場所とは別の空間意識や、現在とは違う時間即ち過去、未来さらには永遠というような時間意識を持っている。ということは、即ち人間は自己を別の空間にも存在させることができる。よって全ての人間がそれぞれの分身を持ち、現実に生きる自分以外に別の現実、すなわち実際の分身を持っていると思って良いだろう。芸術家や職人は未来や永遠に向けて自己の分身を送り出していると言えなくはない。
確かに、自己の分身(像)を現実にありありと見てしまうのはやはり幻覚、妄想であり、精神病理(分裂)的状態と言ってよいように思われる。しかし今述べたように全ての人間は自己を含めて全ての事物を分裂させて違った時空間に分身化させる能力を持っていると言えなくはない。いやそれどころかそのようにするのが人間という動物の本来の姿なのだと言えるであろう。

⑶ ヒューマニズム(人間中心主義)の終焉
 今や人間は、現象的には「欲望する機械」の一部品と成り下がりつつある。「我思うに我あり」のような存在ではもちろんないし、世界をそして諸々の事物を客体として構成する主体でもない。端的に言えば近代ヒューマニズム上の人間の価値が下がったのである。近年の犬猫をはじめとするペットブームはその一例である。機械の一部品と成り下がりつつある気むつかしい、しかしそのくせ近代ヒューマニズムのモラルの下に過剰に保護されている人間と常時居るよりは犬や猫と居る方がよっぽど気楽になってきているのである。
そもそも本来人間を他の存在(犬や牛馬)から特別な存在として区別する根拠は何ら有りえないのである。つまり犬等の動物に限らず単なる物理的な実在にも、このコナトス(現働的本質)は存在する。即ち木や石もそれらを除去したり破壊せんとする外的な圧力に対してそれらは当然にコナトス(現働的本質)的作用として抵抗するであろうからである。唯言えるとすれば人間等の哺乳動物の方がその抵抗がはるかに強いという点が違っていると言えよう。
現在、犬を飼っている犬好きの老婦人の言葉「この犬の前の犬が亡くなった時に悲しみ泣いたように、主人が亡くなった時、私は泣けるかどうかわからない」この老婦人は別段ご主人に愛情がなくなっているのでもないし、犬好きが高じてこのように述べただけでもない。どちらかと言えばかなり人間好きなこの老婦人でさえも、人間というものに飽きつつあるのである。つまり人間が面白くなくなっているのである。本稿との関連でいえばこの老婦人は愛犬の方に自己のコナトス的(現働的)分身化作業を行わざるを得ない情況になっているということである。念のため言うとこの情況はこの老婦人にとって不幸というわけではない。このように犬を分身の対象とできる人はまだ幸いと言えるかもしれない。今、世界は分身化の対象を見出せない人々にあふれていると言って過言でない。
思うに、近代ヒューマニズムそのものが我々人間の生きる可能性を拡げたように見せて、実はその分身化の可能性を極少化したような、又はパターン化したような思想パラダイムであったとも言えよう。
 そもそも人間と名のつく以上、生まれたての赤ん坊であろうが、限りなく重い意識の障害の下にある人であろうが、人間は現にある自己を維持し続け且、その自己を生成変化して新たなないしは別の自己つまり分身を実現せんとする欲望を持ち、力能を持っている。
 さて、コナトス(現働的本質)に基づいた自己を実現せんとする力能であるが、当然それは時代により情況により増大したり減少したりすることは当然である。かつては人間同士の間でも人間と自然、人間と動物等の間でも新しい分身関係が多様に築かれているものである。即ち他の身体や自然や動物との間に自然な分身関係が対象を変化させ自己も変化していくという人間の本性に基づいた自然な欲望が充足されていた時代もあった。従ってそのようなことをあえて論議の対象とする必要も感じなかったのである。
 しかし現代このような自己を実現するための力能、端的にいえば分身のための力能が限りなく減少しているために、分身の対象を探してさまよっているのが人間社会の現状と言えよう。そしてこの場合分身といういわば身を分かつという言葉から分かるところの身とは何かを考え、精神や魂や自己やさては単なる肉体とも違った「身体」とは何かという問題が立ち上がってくるのである。
 ところでスピノザの「エチカ」の有名な言葉によれば「ひとは身体が何をなしうるのか、また単に身体の本性を考察することから何を導き出されるかを知らない」と言っている。思うに近代社会原則によれば我々人間の諸行動は自由な自発的な意志に基づいてなされることになっている。しかし、実際にはこのような意志によってではなく、コナトス(現働的本質)としての身体が人間の意識を越えて決定していると言ってよい。そしてこの決定の最も中心を占めるものが自己の分身をどのように作り出したり、あるいはどのような対象を自己の分身と見なし、その結果コナトス(現働的本質)の安定を得るかという問題なのである。
「身体」とは、意識でもなく単なる肉体でもなく、人間が生きていくためのコナトス(現働的本質)を中に含んだ用語である。肉体や意識は亡びなくなるが、身体は他のものに分身化し変化し不死である。

⑷ 分身論の本質=(肉体や魂は滅んでも身体は死なないということについて)
 ここで言う身体とは有機的な身体つまり肉体ではなく、その本質を自己の分身として存立させようとするところのもので、そのための基点となる零点から発生、生成、変化するいわゆる器官なき身体のことである。 
 例えば極端な未熟児で肉体的には成長し、諸々の事物との出会いとその喜びの可能はほとんど不可能に思われるような情況においても、なおコナトス=「現働的本質」は作動し続けている。そしてコナトス即ち「現働的本質」は、この諸事物との出合いの中でいろんなものを変化させ、自分自身をも変化させ最終的にはそれらを自己の分身としていくための基礎となるものと言えよう。
 もっと言うならば、このようなコナトスに基づく、分身化が作動しておる以上死ぬことはないのである。「人間の身体は、人が変化させること、変えることを忘れることによってのみ死ぬのだ。それ以外では死なない。風化しない。墓を通ることもない。」、「違う。人間の身体は不滅で、不死であり、それは変化するのだ。」「ひとつの身体から別の身体へと。」、「身体の強化され高められた状態へと。」注3
 世俗においてもよく言われることであるが「つまらないリーダーや成功者は金を残す。良きリーダーや成功者は人を残す」と。この俗言はまさに当を得ている。そう言えば良きリーダーはいわば後進者へ変身し分身化したため亡くなったような気がしないものである。(現実的な闘いの)触発・変形された分身は死の後にも残るものなのである。そして身体の本質としての分身とは「自己の外延的諸部分からなる存在が崩壊して失われた後も、つまり死後も、触発され変性し続けるその個的な特異本質のことである。これが本質に対する存在の最も興味深い意味の一つである。不死とは唯一この触発・変形の部分についてのみ言われるべきことなのである。」注4
先にふれたように、すでに亡くなった人を日常的に幻視して生活するのは普通ではない。しかし、いよいよ死を迎えんとする時に、すでに亡くなった親しかった人々を幻視することは異常どころか近年推奨されている。この死臨終という肉体の終了時に「お迎え」という体験をできる人は幸せである。けだし、すでにこの世にいず、どこへ行ったかわからない人々や動物の身体、つまり身体の不滅を感じることができるからである。
このような現象「お迎え」を従来のように単なる幻覚として結論付けてしまうことは論外であるが、一方、心穏やかな苦しみのない最期のための方法の一つと考えるだけでは思想的、哲学的にはもちろん、単なる生の技法としても不十分なものと言うしかないであろう。
ところで、バタイユの言うように動物は水が水の中にあるように、自然の中にあるわけだから、人間のような死はない。そこで、考えるに、吾々はヒトから人間になる時、つまり、自然から決定的に解離した時に、肉体や魂は消滅しても「身体」は不滅で死なないのだということを吾々の遺伝子の中にインプットされていたのだと考えた方がよい。そうであるから、吾々は自宅で死を看取られる人々の40%がお迎えを体験するのであり、そのうち80%が死の不安や恐れのない穏やかな最期を迎えているのである。しかもお迎えを体験した人40%というのは、そのことを言明した人の割合であるから、臨終の意識混濁の中でお迎えを体験する人の数はもっと増えるに違いないであろう。
また臨終の際に、「また会おうな」とか「また会えるよね」とかどちらかともなく言い交わすことがある。これらの最期の言葉のやり取りを実のところ逝く人に対する慰めや救済の言葉として捉えている人が多いであろう。しかし、ヒトから人間となった吾々の直感に基づいて考えてみると、この「また会おうな」という言葉は死に臨んだ人がそのことを信じて極めてリアリティを持って言っていることを忘れてはならない。思うに、二~三年でまた会えるものとも思わないが何億年も彼方の後に、今ここにいる人間たちがまた会い集えることは充分あり得ることなのである。さらに言うならば、吾々は本当に会えることを信じて言っているのであり、ヒトから人間になる時に他の動物とは違って死の間際にそのように信じることに、吾々人間という「類」は決めたのだといってよい。注5

⑸ サッカーと分身論
 野球のイチロー選手が「自分に声援を送ってくれるファンの一人一人の顔を見て確かめてみたい」という意味の発言をしたことがある。イチローに自己の分身を見ているファンが当然沢山いることは間違いないであろうが、彼のこの発言は、イチローの方も、現代人でもあるイチローがいかに自分の分身を求めているかを物語っているであろう。(自己の妻でもなく子供でもなくである。)
 サッカー日本代表の現監督ザッケローニは言う。「選手は、観客席に向かって駆け寄りあいさつするのは観客つまりサポーターに愛されたいからなのです。」このことは、サポーターが選手達の分身となっていることを表象している。サポーターが選手にあこがれ、選手のようになりたがり選手を自分たちの分身にしているだけではなく選手達の方もサポーターを分身化しているのだ。このことはJリーグができて以来の日本サッカーの文化的な蓄積といってよい。
 周知のようにプラトンの饗宴の中でアリストパネスという詩人が男女が一体となった人間アンドロギュノスについて以下のように述べている。
人間は大昔4本の手を4本の足を持つ両性的な動物であったがそれが何らかの理由で二つに分かれたものだから人間はことあるごとに分かれたもとの片割れを求めて合体しようとするのだ。それは性の原点だと。これなども見事な分身論である。このアンドロギュノスの話は性的な欲求の暗喩として使われる場合が多いが実は最も人間の根源的な分身化への欲望さらにはコナトスを表現したものと言ってよい。
 ある論者が言っているが、「男達は女に成りたがっているんだ」つまり女に分身化したいのだという言葉は男性側からの性的有り様を表現したそれこそ見事な分身論である。女性は産む性であるから、身が文字通り二つ三つに成っていくため男性の分身願望とは又違ったものであろう。

 ジョージ、ベストについてデニス、ロウは自伝の中でこのように述べている。「ジョージはボールを持ちすぎなければ(ペレやクライフ並みの)選手にちがいなかった。しかし、そのために本来ならなれたはずの世界最高のプレーヤーには決してなれなかった。」(デニス、ロウ「自伝」)
ペレやクライフのような偉大な選手達でも試合中にボールに触れている時間は数分程度と言われている。ということは最強のストライカーでさえも他の選手をどう使い又どう使われるかが問題なのだ。つまり他のチームメートをどのように分身化し得ているかがその選手の最終的力量を決めると言えるだろう。
そのような意味においてクライフやペレは新しい分身化の方法をあみ出したのだと言ってよい。そしてその方法は、すべての人々がすぐ後で述べる生の技法の範囲を見事に拡げてみせたのだと言ってよい。
さて分身とか分身化という営みをサッカーに限らず人間は何故行うのであろうか。思うに、赤ん坊のような非力なものでさえ人間は何らかの分身を目指す存在なのだ。又その人が栄光の時であれ悲惨の時であれ、常に彼にとっての分身化作業は続けられている。注6

⑹古代インドの「梵我一如」説という分身論
 さて近代の行きづまりの地点で以上のような分身論が喚起されることであろう。そこで我々がさらに思い起こさなければならないのは古代の神話や哲学であるが、とりわけインド古代の神話や哲学で物語られ、思考された世界が、我々を勇気づけるものと思われる。この「梵我一如」の立場に立ついわゆる「ウバニシャド」の哲学が完成するのは紀元前800年頃だと言われている。梵とはブラフマンのことで、我とはアートマンのことで、前者は万物に偏在する最高実在(神)のことで、後者は単的に「自己」を意味する。そして「最高実在」としての「ブラフマン」はすべての「自己」としてのアートマンの中にその本質を顕現しているものと考えられている。
さて、この「ウバニシャド」哲学の思想が「マハーバーラタ」という叙事詩の一部「バカヴァット・ギーター」という物語で語り、詠われている。それは「梵我一如」の思想に、倫理的思考をも加えて、人間として生きることを鼓舞するものとなっている。又、人間の「身体の不死」ということについてもこれ程見事に表現している詩句はないと思われるので、少し長くなるが引用することにしたい。物語は、まず王子アルジェナが敵陣中に多くの親類や友人等の姿を見つけて怖じ気付き、御者のクリシュナ(最高神ヴィシュンの化身)に、自己の苦しい胸の内を訴える。インド人ならそしてヒンドー教徒ならば誰もが知っている有名なダイヤローグ(対話)であるが、以下に引用することにしよう。
戦において親族を殺せばよい結果にはなるまい。クリシュナよ私は勝利
  を望まない。………
  ああ、我々は何という大罪を犯そうと決意したことか、三権の幸せを貪り求めて、親族を殺そうと企てるとは。(1・28~32.45)
このように述べて、悲しみに心乱れたアルジェナ王子は戦車の座席に座りこんでしまった。それに対してクリシュナは以下のような有名な台詞で答える。
  あなたは嘆くべき人々について嘆く。しかも分別くさく語る。
  賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。
  私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも…
また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない。
  主体(個我)は、この身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。
  しかし、クインティーの子(アルジェナ)よ、物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来たりては去り、無情である。それに耐えよアルジェナ。
  それらの接触に苦しめられない人、苦楽を平等(同一)のものと見る賢者は、不死となることができる。(2・11~15)
以上のような日本語訳で読んでも感動的な言葉をクリシュナはアルジェナ王子に投げかけて、「梵我一如」の思想をふまえ、その上に人間として生きるに当たって大切な心構え、そしてさらに明確に人間の身体の不死について語りきっている。
この古代インドの「梵我一如」の思想とその生き方は、バラモン、ヒンドー、仏教を通じて我々日本人にも大きな影響を与え続けて来たし、今もそうであることは周知のとおりである。どうもインド人をはじめとした古代人の方が現代人よりも身体の不死と分身論については、理解し、生の技法としてもまことに良く、これを実践していたと言えるであろう。

3、生の技法としてサッカー 
20才の時にナチスの迫害から逃れて30年以上ブラジルで生活したプラハ生まれのユダヤ人思想家ヴイルム・フルッサーの著作「ブラジルの現象学」に以下のような一節がある。
「ブラジルのサッカーは(他の非歴史的な国々におけるのと同じく)、ヨーロッパのサッカーとは存在論的に異なっている。ヨーロッパでは、サッカーがプロレタリアに開かれた「疎外からの脱出口」としての役割を超えることはまずない。だがここブラジルでは、人間性の内的な統合を実現するための通路としての役割をサッカーがもっている。あちらでは、サッカーは苦しい現実を忘れさせるために機能する。こちらでは、サッカー自体が現実なのである。」注7
ここで言う「内的な統合を実現するための通路としての役割」とは何か。一口で言えば不確かで“心細い自己の存在的な”つまりアイデンティティーの根拠への糸口と考えてよいであろう。従来ブラジルのサッカーと言えばブラジリアン・ドリームを夢見る貧しい少年らのハングリーな挑戦とサクセスストーリーとして取りざたされることが多いが、不確かで、心細いアイデンティティーにいかに対処するかという、いわば彼ら少年の生の技法としてサッカーがまずあることを忘れてはならない。
そしてこのような生の技法が、競技としてのサッカーの枠を超えて広く社会空間全体へと浸透していく装置として機能していると言ってよいだろう。したがってサポーターもそのような生の技法を共有している。1973年に最低賃金が月額51ドルであった時代に一般席(一番安い席)に行けば、食事代と交通費込みで3ドルはかかった。月に平均二度はサッカー場へと出かけるのが熱心なサポーターというものである。この場合、最低賃金の労働者ならば給料の12%をサッカーの試合観戦に費やしている計算になる。このことからブラジルのサポーターは、懸命に働いて稼いだ少ない収入から、選手達に給料を支払ってやっているのだという認識が生まれてきても不思議ではない。そしてこのような認識は、彼らから給料をもらっているとされる選手達も少なからず共有できるであろう。注8ここにブラジルのサッカーが切り開き到達した生の技法があると言ってよい。
 このような生の技法の有り様は、選手とサポーターの分身化関係と言ってもよいような関係性を現わしている。「サッカーをしていて死ぬことはないが、応援は命取りになることがある。」ブラジルサッカーの解説者ノーマンド、ノゲイラの言葉である。実際、他の地域に比べて南米では試合中に心臓発作による死亡が多いと考えられている。サッカークラブの会長等の役員が敵の決勝ゴールにショックを受け心臓発作で死亡した例もいくつか報告されている。そのため、ブラジルの新聞は、心臓疾患のある人はサッカー場に行くことをひかえ、又ラジオのそばにもいないように勧告するぐらいである。
 それくらいにサッカーはブラジル人の生活の中に位置を占めているのであるから、サポーター組織のリーダーがチームの属する町の有名人になることはよくある。そして、それらの人々がより制度化された方法で社会的に認知されるということがブラジルでは他の国々と比べてよくあることである。
このような生の技法としてのブラジルのサッカーはその競技の方法として世界のサッカーに影響を及ぼし、さらにサポーターの有様としても世界に影響を及ぼしたと言ってよい。特に後者のサポーター概念の深化はサッカーだけではなく、世界に新たな生の技法を示していると言えよう。
 聞くところによるとジーコが来日してできた鹿島アントラーズのサポーターのリーダーが、市議会議員となって今もなお活躍されているらしい。日本もブラジルサッカーに基づく生の技法と無縁ではないと思われる。

4、サッカーと即興性
サッカーに限らずスポーツはライブ=(生)でみたいと思う人が多い。たとえ現場ではなくテレビであってもライブがいいということで、サッカーのユーロ大会などは日本時間の深夜の三時四時という場合でも、ライブで見ている人が多くいる。彼らにとってサッカーが実際に行われている九十分から百二十分さらにはPK戦も入れた時間が極めて大切なわけである。録画予約しておいて後で見るという手はあるが、それ自体は過去の事実の記録にすぎず、たとえテレビで見るとはいえ、生での同時性による即興性はない。つまり観客やテレビの視聴者は同一時空間に存在し表現された即興作品としてサッカーを一番求めていると言えよう。
 このようにサッカーのゲームにおける即興性は他のスポーツに比べても極めて高いのであるが何故そのようなことが起こるのか。一つにはルールが他のいろんなスポーツ、とりわけ団体競技の中で極めて少ないことが上げられる。決まり事が少なければ少ない程プレイの範囲は広くなる。一方一人のプレーヤーの判断の幅も広くなると同時にその質とそれにまつわるその者の責任が問われることになる。しかもその判断たるやサッカーの場合瞬時に判断し、実行に移されなければならない。そこにサッカーの即興性的な魅力があると言ってよいと思われる。例えば、シュート一つを取ってみても一本のシュートは二度と起こりえないであろう。その場だけに生じた一瞬のいわば出来事であるからだ。シュートを打つコースやタイミングなど誰も教えてはくれないし教えることはできないものなのである。また敵陣でボールを得た場合、我が身を一本の槍か矢のように変身させてドリブルをもって突き進むのか、それとも脇を並走している味方をいわば分身として使ってパスをするのか、その時その時まさに即興的に判断して行動しなければならないものなのである。

⑴ 何故即興性が求められるか
 
日本においても中世や近世において和歌や俳句も連歌や俳諧として即興性を強く持った「座の文化」として重要な位置を占めていた。日本人なら誰もがよく知る芭蕉の文学はそれらの座の文化と即興性を抜きにしては成立し得なかったところのものなのである。現代芭蕉の時代とはいかないまでも、その形式に近い連句をできる人は俳人の中でもごくわずかにしかすぎない。歌人の小生が動員されるぐらいである。
 では、なぜ現代にこのような即興性が要求されるようになったのであろうか。それはゴールを擬似的な供犠として述べたことにつながってくる。つまりバタイユの言う供犠の原因と深くつながってくると思われる。原始動物として生きていたヒトが人間となり他の動物や物を「事物」となすことにより、いわば自己のものとして可能性を拡げてきたのではあるが、現在ではそのような事物化されたもので人間の周辺はあふれてしまい、いわば「失墜状態」にある事物であふれ人間はそれらにかってあったような新鮮な感動を覚えなくなっているのだ。これを構造論に言えば人間社会の構造化能力が臨界点に来ているからだと言って良いであろう。そうなると全ての芸術家等も従来のような作品を作るだけでは人間の本性にのっとった分身化という欲望を達成できなくなってきているのだ。そこで吾々は、自己を維持且、自己を生成変化させんとする力能=(コナトス=現働的本質)に戻って自己の分身化=(作品化)をはかるしかないであろう。
 先程述べた文学やその他の芸術の分野が全くの停滞状況に落ち込む中で、これだけスポーツ、とりわけサッカーが話題とされるのは何らかの事情があるに違いない。それは肉体と精神からなる「身体」を手段としてゴール=(作品化)を成し遂げんとする、こう言って良ければコナトス=(現働的本質)に基づいた分身化作用をそこに見出すことができるからかもしれない。このことをサッカーは当然即興で行うのだが、即興とコナトス=(現働的本質)を基礎に行われるから、表現者自身も自らの表現行為に満足するのであり、又観客は表現者のどこかコナトス=(現働的本質)的原理に基づいた表現をそこに見て取るから感動するのであり、ライブでみたいと思うのである。
 最後に思い切ったことを言っておこう。それはとりあえず人間が追いつめられたという認識の下に言うのであるが、もはや即興の時代であり、変身の時代であり分身の時代なのだ。今我々は人間史上最大のピンチなのだが、コナトス=(現働的本質)という形で生き始めるとすれば、それはチャンスとも言えるかもしれない。

⑵ いわゆるサッカー即興芸術論について
 注意をすべきことは「芸術性」があるからゴールの成功ないしその確率が上がるわけではない、逆である。ゴールへの成功ないしその確率が明らかにあるからその選手のそのプレイに観客は即興的な芸術性を感じることになるのである。つまりサッカーのそれらのプレイに即興の芸術性を感じるのは観客の方であって選手達は単なる職人であると考えた方がよい。けだし選手達は一方で擬似的あるいは様式化されているとはいえ、猟師であり戦士であるからである。
 サッカーは勝負事である以上勝つことに意味がある。相手より一点でも多く取って勝利することが選手達の第一の目的なのである。見事なパスワークからの見事なシュートを打ってもゴールの枠をはずしたり、相手キーパーに取られればゴールではない。反対に偶然のようなゴールや相手のオウンゴールでも点を上げて上回れば勝利ということになるのである。サッカーの怖さ、厳しさ、ある意味での残酷さ、そしてそれを裏返した面白さがそこにある。
 その意味でやたらと「芸術的」なキックだとかパスや飛び出しとか言うとかえって混乱をまねくであろう。サッカーは現代アートの諸々のパフォーマンス、即興の舞踏やダンスとは本質的に違うのである。今述べたゴールによる一点の重みを考えれば、芸術的な云々と言うことによってサッカー本来の持っている美学を損なう恐れさえあるかもしれない。芸術だけではない美学もあるからである。注9

5、サッカーに基づく表象行為により、日本社会の何が変わるか 
 よく言われる例えに狩猟民族である欧米人に対して日本人は農耕民族だから、
サッカーを初めとする闘争的な激しいスポーツは似合わないなんてことを言う人たちが未だに後を絶たない。しかし初めの方でもふれたように人間が農耕を始めるようになってからたかだかまだ一万年なのである。このことは日本人も同じである。百万年前にヒトから人間になった歴史の百分の一でしかないのである。吾々が基本的に有している諸々の文化や性的な特徴、独特な子育て、男女の分業の体制、他の類やサルには見られないオスたちの厳格なそしてある意味では親密な分業と協力の関係等々は農耕に由来するものではなく狩猟に由来するものなのである。
 吾々は欧米人であろうが東洋人であろうが日本人であろうが、いまだに全て狩猟することによりサルより人間となった者そのものなのである。汝自身を知るべしである。
 現代においても人間が、その目標において屠殺(ゴール)と同じ象徴的言葉をもちいているか、又いかにシュート類似の行動様式を取りつつあるか、その例にこと欠かない。デスモンド・モリスによれば研究者はガンの治療法を「追跡」するし、画家は完璧な絵をキャンバスに「捕獲」しようとする。さながら歌人である小生ならば、人の心を「打つ」ために歌を詠んでいるのであるが、特に即興で相聞(挨拶)歌を詠む時は相手の心を一瞬で「仕留める」つもりで詠むものなのである。
 狩猟するサルである人間自身の本能出自を知るならば、本気で取り組めるような狩猟の代替物いわば象徴的な狩猟に当たるものをあみ出していくより方法がないであろう。それを怠ったり、又、失敗すると、もっと残酷な人類にとって破滅的なものが生まれてくるであろう。そう言う意味で今のところサッカーは象徴的な狩猟および供犠という人類にとっての重要な装置を見事に果たしていると言ってよいであろう。
明治の開国以来、この前の大戦をすぎて昭和の30年代位まで、日本人はスポーツ全般を単なる遊びや喜びのためと考えるには余りに贅沢なものと考えていた。その間日本は国家目標として欧米の国力に追いつくことを掲げてきたために教育関係者たちはスポーツを青少年を教育し立派な国民を育成する手段と考えることによって、日本の文化制度の中に位置を見出した。そして国民もおよそそれを了承した。
 いろんな近代スポーツが導入されたが、中でも野球ほど日本人の生活に密着して定着したスポーツはなかった。しかし野球、特に日本の野球では監督の決断と指示が勝利のための絶対的な要因と考えられており、このような管理システムによって成立したチーム(組織)が優れたものとされたのである。そして野球チームでの管理法や指導法が高度成長期にあった企業の成功のモデルとして表象化されていたのである。
 しかし、そこにサッカーが登場したのである。Jリーグの開設により国民はサッカーの面白みを味わったのである。そのため、スポーツを自己の生活や会社の表象行為として使う場合に、それまでは野球だけしかなかったところに、サッカーをもモデルとして使うことになったのである。いわく、イエローカード、ペナルティー、司令塔、中盤、シュート力、決断力等である。その結果、企業も野球型の管理法だけをその運営方法に当てはめることができなくなっているのである。
 最後にそれではサッカーは野球と比べて、そもそもどのようなスポーツであるかを考えておこう。サッカーは野球のように攻守がはっきりと分かれて守備位置が決まっているスポーツと違い、一瞬にして攻守が入れ替わるスポーツである。ボールを保持した選手が自分がドリブルで持ち込むのか、それとも味方チームの誰にパスをするのか一瞬にして決めなければならない。それもゴールという最終目標を意識し、且それとの関係において決めなければならないのだ。つまり、その時その時に即興的に自由でクリエイティブな発想が、サッカーには必要とされるのである。
 さらに別の角度から言うならば野球では試合の構想を監督一人で行っていたものが、サッカーでは選手一人一人がそれを行わなければならない。ボールを持つ選手は即座にその構想を実行に移さなければならないのだ。この構想力の力が試合の勝負に大きく影響することは間違いない。
 野球では選手が構想するのはピッチャーの投球配分とそれに対峙するバッターの読みや、またせいぜい内外野手のちょっとした「ポジション取り」ぐらいである。その結果、それぞれ個々のプレイ、つまり技能の力量が直に勝敗につながると考えるに至るであろう。このような考えは、職人としての心性の向上には役に立つけれども以下のような欠点をさらし出すであろう。即ち、自由な発想による構想ではなく何らかの強い身体的思考的規制の下でものごとをなすことでしか成果を実感できないという心性である。
 このような心性を従来、あるいは自慢げに、あるいは自虐的に職人(仕事人間)気質といってやってきたが、今や世界的に見て日本人の大きな弱点だと言ってよいだろう。
思うにこのような発想のサッカーが野球と並んで日本人の生活や企業社会の諸現象を例えることに使われることになったことは、国民の意識を変え、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるであろう。大げさに言えば戦後最大の獲得成果だと言ってもよいであろう。たかがサッカーされどサッカー、たかがスポーツされどスポーツなのである。
                                  平成24年8月3日脱稿


注1  モリス「サッカーの人間学」はゴールが擬似的な屠殺であり、様式化された擬似的な戦闘行為 で   あると言明している。本稿もそれに依拠している。しかし本稿ではゴールをさらに擬似的な供犠と見   ることによってサッカーというスポーツの持つ人間行動的さらには宗教的な側面をより深めようと試   みるつもりである。

注2  「日本書紀」皇極元年(642)7月条には、村々の信仰の指導的立場の者がいて、その者たちの   教えに従って、牛馬を殺して祈り、市を移し、また水神に祈ったりしたが、雨乞いの効き目はなかっ   たと記述する箇所があった。また「日本書紀」天武4年(675)の記述では、牛馬などの肉を食す   ることを禁じる記述がある。どこかで殺生による供犠は行われ続けていたとも思われるが、大方は、   何らかのものを神社に奉納するとかその他の方法で代替された可能性が強い。

注3  「演劇と科学」アルトー 邦訳P411~412 1947年

注4  「死の哲学」江川隆男 河出出版社 2005年12月 21頁

注5  このこと、つまり身体の不滅を最もよく思想的に表現してくれているのは吾等が国民詩人宮沢賢治   であろう。このような詩人を持ちえたことは吾々の最大の幸運である。
   とりあえず宮沢賢治詩集(新潮文庫)P96~P99「白い鳥」、
P133~P138「五輪峠」、P172~173「薤露青(かいろせい)」 


   <白い鳥>より
・・・・・・・・・・・・・・・・
二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめった朝の日光を飛んでいる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いている
(それは一応はまちがひだけれども
  まったくまちがひとは言われない)

-下線は「筆者」-  


<薤露青(かいろせい)>より 
……あゝいとしくおもうものが
そのまゝどこに行ってしまったかわからないことが
なんといういゝことだろう…… 

注6  初夏の日射しの真昼の電車の中で、隣に座った母親に抱かれた赤ん坊が貴方の肩に触れたことがな   いだろうか。その時その赤ん坊は母親という自己との区別のまだあいまいな母親という存在の中か    ら、貴方という未知の分身に働きかけ自己のものとしようとしているのだ。そして、もしその赤ん坊   が貴方に微笑みかけたなら、貴方はカミと出会っていると思って良いのだ。

注7、注8 今福龍太 ブラジルのホモ・ルーデンス 2008年、月曜社
 
注9   三倉克也 「新サッカー論」(株式会社レーヴック 2010年)
     斬新なサッカー論であり啓発されること大であるが、一部分批判的に検証させていただいた。

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まとめ【現代人にとってサッカ】
現代人にとってサッカーとは何であるのか       ー擬似的供犠、分身論、生の技法ー         //まっとめBLOG速報 2012/11/23 00:19

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