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2009/09/16 (Wed) 現代オナリ神論     ---「引き込もり」訪問活動者「レンタル姉さん」に「妹の力」を見る---

現代オナリ神論
---「引き込もり」訪問活動者「レンタル姉さん」に「妹の力」を見る---
屋 繁男

1、「引き込もり」「ニート」の現状
 1)労働時間は先進国の平均1、5倍という過剰労働時間
 2)日本人のアイディンテティー獲得の文化的特異性

2、「レンタル姉さん」の登場とその仕事内容

3、女性の霊的優位性

4、「レンタル姉さん」は現代のオナリ神である
 1)オナリ神(妹の力)の民俗史
 2)レンタル姉さんの強さの秘密

5、オナリ神という民俗─「サクラ」は「トラさん」のオナリ神である

6、付記











現代オナリ神論
「引き込もり」訪問活動者「レンタル姉さん」に「妹の力」を見る



1、引き込もりニートの現状     100万人の危機
 1)労働時間は先進国の平均1、5倍という過剰労働時間
働き過ぎによる過労死が問題とされてから久しい。’66年にすでに週40時間労働は過去のものだと言われていたのに、労働時間が減るきざしがない。それどころか人手不足により増える傾向さえある。現在、他の先進国に比べ日本人の労働時間は、平均1,5倍という高さである。働き盛りの30~40才代を取れば、1,8倍から2倍近く働いていることになる。このような人間の生理的な限界を越えた労働を「会社」というシステムが、成熟に向かわんとする日本社会が今なお要求するのは、どういうわけなのか。一度真剣に考えてみた方がいい。もちろん仕事である以上、徹夜のようなことだってあるわけであるが、常時このようなことを働く人に要求するシステムでは、10人に一人くらいのとてつもなく頑丈な体力を持った人しか続けることができないような労働内容である。このような、生物としての人間の限界を無視したことを続けていくと、結局は「面従腹背」となったりして、その会社組織は崩壊してしまう可能性がある。ニートの若者達の中には、いち早くこのことに敏感に反応している人々がいることは間違いない。

 2)日本人のアイディンテティー獲得の文化的特異性
  日本人のアイディンテティーの獲得は、その所属する「場」に依存するのだがその それぞれの場は、一貫した原則(キリスト教世界や儒教世界のような)がないために、人との距離の取り方に文化的な一貫性がない。
  そこで日本人は、その場に内と外というとりあえずの線を設けて、その内側を甘えられる関係、その外側を甘えられない関係とすることで、自己のアイディンテティー確認の一助とするのだが、日本人は会社や学校での同僚や同輩が身内になったり、親戚であっても、時には他人と見なしたりするため、かなり流動的と言わざるを得ない。
    よって、この内と外の関係、つまり甘え甘えられる関係を取り違えると一気にその身内の範囲は、核家族に縮小してしまうことになるのです。
  ここに「甘え」という不可視の装置を基礎とする我々日本文化ないしは、日本的システムの弱点があるのです。
    けだし、この装置を使えるためには甘えの選択対象との距離感を実に素早く正確に判定しなければなりません。引き込もる青年達のかなりの部分が、このような「甘え」装置を使う技能を持ちそこなった、つまり甘え下手な人々といってよい。
  あらゆる「場」においては、当然自己と他者との葛藤があり、青少年の場合、その他者は権力的上位に立つ場合が多い。この場合、その上位の他者やその集団への一方的な同一化や同調を、日本社会では求められているように言われることが多い。しかし、日本社会でもアイディンテティーなるものは、むしろそれらの他者や集団に対する日常的な相互作用、つまり抵抗や妥協又は交渉という過程を通じて具体的な形として成立するものと思われる。
    このようなアイディンテティー獲得に失敗するとどうなるのであろうか。他者や集団との一方的な同一化や同調による価値基準や社会的レベルという、いわば抽象的な観念を実存するかのように想定してしまうことになるのである。しかし、彼らが漠然とあると思っているそれらのレベルや基準の内実を、先に述べたような抵抗や妥協や交渉という相互過程を通じて体得していないため、それらの実存を語ることができないままなのである。そのため、逆に彼らの社会的努力行動は常に完璧な、いわば遠ざかっていくようなレベルや基準を目標とすることになり、やっぱりだめだったと結論せざるを得なくなる。
  その結果、アイディンテティーを獲得しえないままに挫折をくり返し、最後は引き込もったりすることにもなるのである。
        (「ニートという生き方」田尾宏文)

そして、さらに危機的なことは他者と何らかの不一致や軋轢がある場合に、その他者の自己に対する態度や行為が単に割や損を喰わせるだけの物なのか、はては、虐待のような暴力的なものなのかの区別があいまいになることである。これは、端的に言えば被害妄想としても言えるであろうが、他者とのあらゆる不一致や軋轢を憎悪の対象としているのでは、その引き込もり青年そのものが生きのびていけないことはほぼ確実である。
    ところで、これらの青年の対人関係を家族内の問題に投影してみよう。これらの青年のほとんどは、他人の家に行くことは少なく、行ったとしても、一日中いや半日も居続けるような経験はほとんどない。我々団塊の世代までは、よく近所の友達の家に一日中上がり込んだりしたものだ。そうすることによって、よその家族の状態やルールをそれとなく見聞きすることがあり、そのことがおのずと自分の家族を相対化するよい訓練となり、子どもながらに家族の現実というものに触れる機会がまだまだあった。しかし、それ以降そのような機会がなくなると、青少年達の家族のイメージは、テレビのホームドラマのような夢のような幸せな(特にアメリカのものがそうであったような気がするが)ものだけとなってしまうことにもなるのである。それこそ、近代西欧社会の男女の愛を中心とした、家族の理想や完璧さという「観念の餌食」(スーザンソンダク)となってしまう場合が多いのである。そして、家族なんてものは多様な形があり、どれが理想的なものなのかを判定することは不可能であるにもかかわらず、即自己の家族を「機能不全」の異様な家族などと思いこむこととなる。その結果、つまり問題点のない家族なんてこの世に存在しないにもかかわらず、自己の属する家族が機能不全な異常な家族であるとの「観念」にとりつかれ、自分が受験に失敗したりとか、失恋したりとかの何らかの人間関係のいきづまりをきっかけに、家族特に異常な親のせいで自分がそうなったとし、親に暴力をふるったり、引き込もることになるのである。
    そこで、そのような引き込もり状況から彼らを引き出すために、現在日本各地では「引き込もり青年」への訪問活動が行われている。


   
2、「引き込もり」訪問活動者 レンタル姉さんの登場とその仕事内容
   「引き込もり」に対する訪問と「引き出し」の活動にはいろんなNPO団体がある。その中でも、現在最も注目されている団体がこの活動に主として「レンタル姉さん」という妙齢の女性を使う「ニュースタート」という団体である。
 レンタル姉さんの仕事は、まず引き込もりやニートの子供を持つ親からの相談や依頼を受けて始まる。その活動内容は、それらの若者と何らかのコミユニケーションを継続することによって、彼らが自宅に引き込もっている状態から抜け出させることがまずもっての目標である。そしてその過程で、ないしはその後に就労や就学へと彼らを誘導するのが次のステップである。現在レンタル姉さんは、約28名。訪問先は実に全国に及ぶがそれぞれの相談者の地域や若者のタイプに応じて、事務局が彼女たちを振り分け訪問させることになる。

 まず、最初のアプローチは手紙や葉書である。一通ごとに手書きで読んでもらえるように、手書きで自己紹介や事務局に着いての簡単な紹介など、なにしろ見ず知らずの他人から手紙が突然来るわけだから、本人にいたずらに警戒心を持たせないための配慮である。
 週一回の割合で、一ヶ月書き続けた後、初めて電話をかける。出てもらえないことも多く、話がはずむというようなこともまずないが、書き送った手紙の内容を話したり、日常の生活の様子を聞いたりしながら、本人の様子をさぐることになる。
 すぐに会えなくても、もちろん訪問へと段階は進むのだが、その時に順調に進む場合は少なく、当初本人に拒絶される場合の方が多い。
 当然のことだが、働くことに疲れたり、又は人間関係に傷つき、挫折した結果彼らは引き込もりやニートになっているのだから。見ず知らずの彼女からの手紙や電話は、よけいなお世話どころか、はた迷惑な行為と受け取られる場合が多いのである。
 しかし、実はこれからが、レンタル姉さんの真骨頂が発揮されるのである。
 それぞれの人格や考え方による創意工夫を駆使し、彼女らは知恵を絞り、ゆっくりと時間をかけ、引き込もりのバリヤーを破って本人にせまっていく。そこに生まれる引き込もり青年と彼女らのさまざまな心の葛藤や交流はかなりドラマチックで、且現在の社会状況を反映する興味深いものとなっている。それが証拠に、すでに多くのドキュメンタリー的レポートが出され、最近NHKでも放映され好評を博している。
 しかし、筆者がこの小論文で述べたいのは、この両者間に展開されることの中に、我々日本人の持っている歴史と文化と民俗さらには神話についてなのである。



3、女の霊的優位性
 脳と子宮という二つの世界の中心を持つ女は、産むという機能を介して、男性にとって実に不思議な場合によっては、驚異の対象になる存在である。世界を自然と文化=秩序という関係でとらえると、男から見て、女は当然自然の側とみなされるが、そのくせ女は自らのよみがえりを通じて、自然の生命力を文化=秩序に属する男に付与し続けてきたと言えるであろう。男から見れば産むといういわば不死の性を持つがゆえに、実は女は二つの領域の媒介者である。

 ここに、女の男に対する女の霊的優位性の根拠がうかがえる。かくして、女は出産の時自身で行うこと当然であるが、死者儀礼という、先程の例で言えば、文化=秩序に属する場面でも、二つの世界の媒介者であるところの女性が重要な役割を果たすことになる。
例えば、死者の娘や姪か、あるいは近しい女性のみによって、死者をとりまき伽をするなど、いずれも女性のみでそれを執り行われることになる。これは、男には対応(扱えない)できないと考えられるからであり、ここに女性の女の霊的優位性が見て取れるであろう。

 各地の漁村に伝えられてきた話によると、遭難した漁師が浜に打ち上げられた時、そのひん死の漁師達が自分の村の者でなかっても、その村の女達が全裸になって代わる代わるひん死の漁師達を温め、よみがえらせたというようなことが多く伝えられている。
 本来、体温だけから言えば、そのかかる消費量の点から女より男の方が若干高いはずだから、男達が遭難したひん死の漁師の体を温めてもよさそうなものであるが、やはりここには女の霊の力に頼る方がよしとされたのであろう。
 又、よく言われることだが大嘗祭等の構造を見てもしかるとおり、古代日本社会では王の「よみがえり」には祖アマテラスが立ち会うようになっていた。つまり男がよみがえる際には、母つまり女の力が必要だったのだ。
 これに反し、アマテラス等女のよみがえりには、男が立ち会うことはなかった。ここにも女の霊的優位が見てとれるであろう。



4、「レンタル姉さん」は、現代のオナリ神(妹の力)である
 1)オナリ神(妹の力)の民俗史
日本の男には妹は不可欠、妻は必要なくとも、妹は必要だという。
 それにしても、レンタル姉さんはなぜあんなに自信を持っているのか。女性の男性に対する霊的優位性という我々の民俗性はたしかに大きいが、小生はさらに彼女らの自信の文化的根拠にオナリ神信仰があると考えている。それは、姉妹が兄弟を守るという我々の間に今も強く残る民俗的心性である。西欧の姉さんでは、そのような自信はもちえないであろう。
日本本土では、現在でも未ぞう有の危機に男が立った場合、女性とくに「姉妹」ないし「姉妹」なる者が守ってくれるという信仰がわずかに残っていて、日常的には失われたように見えていても、男のある種の危機的状況のもとにあったとき、よみがえってくるのである。
 例えば、先の大戦の時に兵士達は千人針という腹巻きのようなものをつけて、しかもその中に女性の毛を入れて、戦場におもむいたことが、子どもの世代の我々にも知られている。千人の女性の針と赤い糸によって守られているということなのだ。
 沖縄では、姉妹の霊力を信じるオナリ神信仰が強いため、姉妹の織った手拭いを身につけて出征した。沖縄の兵士の間では、枕元に立った妹に手引きされて危機を救われたという話が伝わっている。

現代でも奄美地方では、以下のような島唄が代表的なものとして唄われている。
   
   舟の高ともに坐さゆる白鳥っぐわ
   白鳥やあらぬ をなり神がなし

 これは、奄美地方に残る島唄である。今もよく唄われる。意味は、舟のともに白鳥がとまっているよ、いやあれはただの白鳥じゃない。きっと皆の中の誰かのオナリ神だよ。(幸先がよいぞ。さあ舟出しよう)ぐらいであろうか。
 この場合のオナリ神とは、オナリ(姉妹)の「いきまぶり」すなわち生霊(いきれい)を意味する。つまり白鳥は、姉妹の生霊ということになる。
(金久 正「奄美に生きる日本古代文化」P、194)
 聞くところによると、奄美や沖縄以外の本土にも舟を建造するときに、女性の髪の毛を舟体のどこかに密かに埋め込んでおくようなことが今でもあるようである。これも、オナリ神信仰の名残であると言えよう。

 周知のように、古代日本には、ヒメヒコ制とよばれる兄妹による分掌体制があり、邪馬台国のヒミコとその弟の場合がその典型である。なぜ、そのような体制を取り得たのか、又、取らなければならなかったのかを考える場合、古代の兄弟姉妹間の特殊な霊的紐帯を理解しておかなければならない。
 先にも述べたように、古代女は皆、呪的霊能力をそなえていると考えられていた。そして、この霊能はとりわけ姉妹から兄弟にむけて発揮され、姉妹は兄弟を守る霊的守護者であると信じられていた。その例を、我々の神話や古代にとって見ると、ヤマトタケル─ヤマトヒメ、大津皇子─大伯(斎宮)、サホヒコ─サホヒメ等の兄弟、姉弟の関係がそれに当たる。このような兄妹間の関係は、琉球弧(沖縄と奄美)において強固であり、姉妹は今でも兄弟の守護神である。近年でもそれが色濃く見てとれる。1992年に首里城が再建された。当然、城内に琉球王がいないにもかかわらず、多くのノロやユタがまだ公開前の首里城につめかけた。これは、王がよみがえるためには、その妹であるウナリ神として、ノロが必要と思ったからだ。
 「レンタル姉さん」という訪問活動者が、見ず知らずに近い家庭に行き、あそこまでの成果を出せるのは、今述べたような我々と日本の民俗的な伝統があると考えざるを得ないのである。

2)レンタル姉さんの強さの秘密
    このように彼女らの使命感や自身の背後に、彼女らの背中を押している日本の歴史や民俗を感じたのは筆者だけではないだろう。そう、彼女らの存在(活動)は、「妹の力」なのだ。
・ 彼女らが助け救わんとしているのは、人生の絶対的危機に陥っている男(ほとんどが青年)である。
・ 何故引き込もり青年に対しては同年齢の妙齢の女性でならなければなかったのか。レンタルおじさんやレンタルおばさん、後にはあみ出されるレンタル兄さんではだめなのか。

 危機に陥った人、特に男性で青年を再生(よみがえらせる)させる点が妹の力。
 つまり、種々の社会的なレベルや基準のレベルの観念のとりこになっている引き込もり青年に対してなされる現実的魅力的な生の世界へと説得する力はまさにそうである。
 いわく、「そんなにひとりの価値観に縛られずに、もっと気軽にいろいろな考え方や選択肢があるということに目を向けたりする方がいい」とか「外の世界には苦しいこともたくさんあるけれど、楽しいことも限りないくらいいっぱいあるよ」とか、さらにはそもそも「人との出会いそのものがいいものだ」ということは先述の基準やレベルを相対化する観点を、若者に提起するものに外ならない。又、彼女らは引き込もり青年らが何回も約束を破っても、彼らの引き込もりから本当は抜け出したいという、つまり再生したいという気持ちがあることを信じて、何度も待つのである。そして、2時間や時には5~6時間に待ち続けることさえあるのである。そして、相手を信じるという生きる基本を生きてみせるのである。(川上佳美、荒川龍)
 そして、そのような提起や約束があれば、その人のためにその人を信じて何時間も待つという姿勢は、実は危機的な状況にある引き込もる若者の人生を再生させることになるのだが、それをよくなしえているのは、同年齢の、生むという機能を持つことによって、自然界と現実界とを媒介することのできる女性であるからである。
 もちろん、レンタル姉さんと若者とは、実の兄弟姉妹ではない。しかし、未ぞう有の危機になった現在、イザナギ・イザナミ兄妹による創造神話を持つ我々の「妹」たちは、アダムのあばら骨から誕生したとされる西洋ユダヤ・キリスト教世界の女の始祖たちより、はるかに強力な力を発揮することになるわけである。
キリスト教のシスターが、神の名によって福祉活動の一環として行くことがあるとしても、それは神の命において、ないしは神の愛のもとにおいてなすことでしかないからである。レンタル姉さんのように、オナリ神として直接青年をよみがえらせるような、いわば、巫女的な役割と衝撃力は、求むべくもないのである。妹の力なのである。



5、オナリ神という民俗─「サクラ」は「トラさん」のオナリ神である
 さて、小論はここで完結してもよいのだが、現代人、特に都会の若者らには、このオナリ神的関係が理解しがたくなっていると思うので、以下、映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんと妹サクラを例にとって、我々日本人が今なおいかにオナリ神的民俗の影響の中にいるかを説明してみよう。

「星の王子」様は以下のように言っている。
「心で見なければよく見えない。大切なものは、目に見えないんだ」
「君が君のバラのために失った時間こそが、そのバラをかけがえのないものにしているんだよ」
「君が自分でなじみになったものに対して、君はずっと責任があるんだからね。」
(サンテグジュペリ 星の王子様 稲垣直樹訳)

フーテンの寅さんの物語が、どれだけ我々日本人にとって大きなものであったか、あまりにも大切で当たり前のことは、誰もわかっていても言葉に表せないものだ。「大切なものは、目に見えない」のだ。トラさんの失恋48連発は、オナリ神としてのサクラがいたからできたことなのだ。トラさんの物語が48回も渥美清が死ぬまで続いた秘密はここにある。トラさんとサクラの物語を我々が切に共有しえなくなった時に、我々のオナリ神信仰は消えるのである。その時、トラさんは単なるコリもせず失恋し続ける色バカ親父でしかなくなるのである。
 トラさんの物語第一作と最終作が今なおオナリ神信仰を色濃く残した奄美を舞台としたことは決して偶然ではない。サクラが我々とのオナリ神ならば、トラさんは我々のエケリ(兄弟)だったのだ。
 この映画を見て、我々がいやされるのは当然だったのだ。考えてみるに、失恋してその度に妻の元に戻ったのでは話にならない。又、母親の元に戻ったのでは、もっと気持ちが悪かろう。これは、どうしても姉妹あるいは姉妹的なものでなければならなかったのだ。例の金日成はトラさんの大ファンだったと聞くが、極論を言えば我々日本の男は、妻がいなくてもオナリ神を必要とするエケリなのである。
 欧米人や漢族では、オナリ神的神性は分かりにくいと思われる。けだし、直接出産により生じた母と子の関係を別とすれば、前者での「家族の中の家族」とは、一対の「夫婦」が基礎であって、それに対し後者では血縁をつなげる「父親と息子」が「家族の中の家族」に当たるからである。
確かにこれらに比べて、社会的安定要因となる「家族の中の家族」たるものを持たない日本社会は今、未ぞう有の危機にある。しかし、現在のオナリ神であるレンタル姉さんの登場と、そのある程度の成功は、我々の文化と民俗のさらには家族なるものへの生命がなお枯れずにいることの証として、還暦を迎えて今つくづくと考えている。
 単なるトラさん一家の家族共同体ないし、地域共同体的なものの魅力だけでは48作も続けられるものではない。物語そのものの筋書きはもちろん、演じている役者にもあれだけの48回の回数をやれば、あの物語を物語たらしめている最大のものはサクラとトラさんのオナリ神の関係であることは、無意識にも分かっていたはずだ。特にサクラ役の倍賞千恵子はそのことを直感的に分かっていたはずが、2千年以上にも及ぶ日本人の心性と向かい合わざるを得なかったはずだ。またサクラの夫ひろし役の前田吟も実によくそのことをわきまえた演技をしており、つまりトラさんとサクラのオナリ神的関係を大切にして演じており、単にトラさんに対する敬愛と尊敬の念を表現しているだけではない。
 サクラをぬきに、トラさんだけではなくあの柴又の家族自体が成り立たない。それを考えれば、彼女がひろしの妻である前に、まずトラさんの妹つまりオナリであることが、あの共同体とドラマを成立せしめていることは明白である。夫ひろしはトラさんといういわば無学な義兄にとりあえず心服しているように見えるが、実はそれ以上にサクラという妹=オナリを信じているトラさんに心服しているのだ。母と子の関係を別として、家族の中の家族という関係が父と子の間にでもなく、夫婦の間にでもなく兄と妹との間にこそあった時代、日本の古代には確かにあったのだ。そして、今も我々のその民俗性を失っていないことを、はからずも映画トラさんシリーズは教えてくれたと言えるであろう。そして、それをよくなしえたのは、渥美清と倍賞千恵子の演技力であり、山田洋次監督の力のたまものと言えるだろう。
 一般的に48作も同じシリーズの国民的人気を持つ映画に出演すれば、現実生活の自己が映画にすいとられて、そちらの自分の方が本当であるかのような錯覚を役者は持つのであろうが、トラさんシリーズは、日本人の民俗的な根幹であるオナリ神的なものにふれているため、それこそ根こそぎ自己を持っていかれた感があるのではなかろうか。
 サクラ役の倍賞千恵子が、渥美清が亡くなったとき「何度『お兄ちゃん』と言っただろう」と言っては、もう固定されてそれ以外の自分がどこにもないような錯覚を覚えたのではなかろうか。他の家族、オイちゃんやオバちゃん、夫の治もトラさんの死は大変な意味をもったであろうが、サクラ役の彼女程に神話的なものではなかったと思われる。かく程に、オナリ神的なものは、なお我々を支配していると言えるのである。
 ある、末期ガン患者の男性が、その人生の最後に家族と共にどう過ごすかを話し合った。
旅行するには体力的に無理だということで、家族全員で映画「フーテンの寅」全巻を見ることにしたらしい。それを見終わった後、彼は満足し亡くなったらしい。この話は、我々日本人が、今も何を信じ生きているかを、この映画「フーテンの寅」がはからずも指し示していることを、我々に教えてくれているといえよう。
 我等が現代のオナリ神「レンタル姉さん」が活躍するわけである。




6、付記
 この「現代オナリ神論」は小生の歌のライバルでもある、奄美随一の唄者 坪山豊氏に刺激され出来上がったものである。くしくも彼は瘋癲(ふうてん)の寅さんシリーズに奄美島唄の師匠として出演している。加計呂間島に今も残る寅さんの恋人役の名前を取った「リリーの家」と呼ばれた家の海岸での島唄演奏の場面は印象的である。この映画がつくられてから10年ぐらい経ってから小生はこの同じ加計呂間島で大島海峡の夕陽を見ながら坪山氏の島唄を聴くことになったのである。かんつめ節、雨ぐるみ節等の悲恋の歌に続きウナリ神の歌 ヨイスラ節が終った時、何げなしに小生が「ところで坪山さんのウナリ神はどうしていらっしゃるのかな」と聞いた。すると彼は「ワキャ(私の)ウナリはカゴイマ(鹿児島)とアメリカに居る」と答えた。その時の少し寂し気な、しかし聞いてくれたことそのものが嬉しいといった表情が今も忘れられない。
 小論はあの時彼が歌ってくれたウナリ神を始めとする奄美の女神たちと大島海峡の夕映えに対する、大和人である小生の感謝とお返しの「現代ウナリ神論」である。

豊(ゆたか)兄(あにぃ)のウナリは海越えアメリカの
お婆になりても兄を守るよ

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