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2009/09/16 (Wed) 言霊と「妹(いも)の力」

言霊と「妹(いも)の力」
―特攻隊員となでしこ隊―
平成20年11月8日


<劣化した言霊とその弊害>
 「言霊」というものが、今も我々日本人を支配している。このことからくる弊害を作家の井沢元彦さんらが指摘している。例えば大東亜戦争の17年も前に、すでに日米戦での敗戦を完全予想していた英人ジャーナリストに対して、大半の日本人はそれを一つの意見として論じることができずに、その英人ジャーナリストが日本の敗戦を望んでいるかごとき受け止め方をして、彼をいわば人格的攻撃の対象とした内容と結果について述べられている。
要するにこの問題は、日本を敗戦予想した英人ジャーナリストの言葉が正に言霊化して、日本人の反作用を発生させたよい例である。(井沢元彦 言霊祥伝社黄金文庫参)
 またよく言われる例が、戦後のいわゆる「平和憲法」下において、少しでも有事を想定した言説をはくだけで軍国主義者であるかごときの反応をマスコミや平和団体が行っていることがあげられる。しかし、当たり前のことだが、外相やかつての防衛庁長官や防衛大臣らは、またその下にいる役人らが有事を想定して研究したり部下に指示するのは本来の職務であるにもかかわらず、このような具体的な有事を想定した言説をはくと強烈な拒否反応を繰り返してきたのである。ここにも、ある人の言ったことそのものが実現するという「言霊信仰」の支配がみてとれよう。
 このように国家や国民にとって死活問題であり、当たり前のリアリティを要求される軍事に関してもそのようであるから、他の分野にいたっては推して知るべしである。例えば現在サッカーが野球をはじめとした人気スポーツを抜いて一番人気の競技になりつつあり、
特に若い人にとってはそうである。昔々、Jリーグなるものが発足するまでの日本サッカーはひどいものであった。はっきり言えば指導者がなっていないのだった。中途半端なオールラウンドプレイヤーばかり育って、点を取るストライカーがまるで育成できないのだ。いやできないと言うより、してなかったのだ。
 ところで、Jリーグ発足当時は、リトバルスキーやジーコ、ストイコビッチという全盛期に比べれば少し衰えたとはいえ、世界の一流のストライカー達が来日し大いに盛り上げ、小生ら昔からのオジサンサッカーファンも、その面白さに感心したものである。しかし、最近はそういう一流のストライカーは来ないらしく、また日本人のストライカーも育っていない。二流の外人ストライカーと大久保選手当たりの日本人ストライカーが得点王を争っているというのがJリーグの現状である。そのため発足当時のさすがプロと観客をうならすような試合が少なくなり、観客動員数も頭打ちから少し減少傾向にあると言われている。
 これらには日本のサッカー指導者の無能さが大きいが、それ以上に見逃せないのが、その無能なままにあり続けさせる「言霊」の影響である。つまり言霊作用の影響により自由な批評ができなくなっているのだ。かつてJリーグ開始早々はあれだけ歯切れよく辛口の批評を行い、監督、また選手の良い点悪い点を指摘し続けていたセルジオ越後というブラジル日系人解説者でさえも、最近では生放送においてはあまり批判をしなくなってきていると聞く。心あるサッカーファンに聞くと、明らかな批判は生放送ではするなと圧力を受けているらしい。つまりセルジオ越後が、日本代表になんとか勝ってほしいために例えば「このままでは日本代表は負ける」とか言えば、彼が日本代表が負けることを望んでいるかごとき力が言霊の作用によって生ずることを恐れているのだ。
 しかし、日本代表をはじめ日本のサッカーチームを強くするために、その問題点を指摘し続けることは極めて必要なことは言うまでもない。当たり前の批判を圧殺することは、いわば「劣化した言霊」の威力に屈して、マスコミやサッカーの指導者達の自己保身のためにのみ、それを利用されている状況をまねくだけなのである。
 ここで言霊とは何か一応定義しておくことにしたい。簡単に言えば、「サッカーの日本代表が負ける」と言えば、その通りに日本代表が負けるないしはその可能性が高くなるという一種の信仰のようなものである。井沢元彦さんの言うところに従いもっと言えば、言葉と実体(現象)が直接にシンクロしてしまうことと言えよう。もちろん西欧社会でも、日本とは違った意味で何事かを祈念する言葉に対する信頼は強くある。しかし、そこでの言葉は究極的には神の加護や恩寵がたよりであり、言葉で祈念する人間は一匹の「羊」にしかすぎない。しかし我々日本人の言葉は、それを唱える人の意志や願望がそのまま直接に実現・成就されることを期待し信じているところのもので、似て非なるところがあるのである。つまり西欧社会では、言葉で訴えた相手である神の力を信じている。それに対して、我々は言葉そのものに働きとその力を信じていると言えそうである。それを日本人の「言霊信仰」というのである。

<なでしこ隊の乙女たち>
 以上述べた「言霊」の弊害に関しては、現在に生きる我々日本人のよく共感しうるところである。しかし、本来言霊というものはそのような弊害の側面だけではなく、今持って我々、人間とりわけ日本人には必要不可欠なものとしてあるものと思われる。日本の歴史の中で言霊は常に我々を鼓舞し続けて来たはずのものだったからである。
 歌詠みでもある小生は従来より、よくこのことを意識せざるを得ない立場にあったのであるが、先日鹿児島県立知覧高等女学校生徒であられた前田笙子さんの日記にもとづいたドラマ「千の風にふかれて」を覧て、この「言霊」が日本人をいかに支え、救ったのかという点を少し垣間見た気がしたものである。
 前田笙子さんは、終戦間近い時に鹿児島県は知覧にあった陸軍特攻隊の若者達のお世話をすることになったのだが、そこでの青年達の苦悩の様子とそれを見て十五歳の少女が感じた諸々の驚きと哀しみを日記に記録したのであるが、このドラマはそれを元にして制作されておりこのような戦争ものという点ではかなりの秀作であったといえよう。その成功の秘密は、十五歳の少女の眼を通して記録した若者たちの最後がよくえがかれているという点もあるが、それにもまして重要なのは、これらの若者が彼女ら少女に対して、そして少女だからこそ「言霊」を信じて語ったと言う事実である。
そして、この特攻隊の青年らと少女との間に繰り広げられた短いとはいえ濃密な関係の中に、こういってよければ我々日本人の持っている歴史と文化と民俗、さらには神話が垣間見えるのである。特攻隊員たちは何故言霊を信じて語り残しておくべき対象として少女達がふさわしく思ったのか。それらは一言で言ってすぐ後で述べる「妹(いも)の力」という我々の民俗と神話である。

<妹の力とは何か>
ここで「妹の力」とは何かについて説明しておこう。「妹の力」とは未曾有の危機に男が立った場合、女性とくに「姉妹」ないし「姉妹」なる者が守ってくれるという信仰である。それは日常的には失われたように見えていても、男のある種の危機的状況のもとにあったとき、よみがえってくるのである。
 例えば、先の大戦の時に兵士達は千人針という腹巻きのようなものをつけて、しかもその中に女性の毛を入れて、戦場におもむいたことが、子どもの世代の我々にも知られている。千人の女性の針と赤い糸によって守られているということなのだ。
 沖縄では、姉妹の霊力を信じるオナリ神信仰が強いため、姉妹の織った手拭いを身につけて出征した。沖縄の兵士の間では、枕元に立った妹に手引きされて危機を救われたという話が伝わっている。
又、よく言われることだが大嘗祭等の構造を見てもしかるとおり、古代日本社会では王の「よみがえり」には祖アマテラスが立ち会うようになっていた。つまり男がよみがえる際には、女の力が必要だったのだ。
思うに、「同期の桜」を歌って仲間と死地に赴いたとして、靖国神社で再会して酒を飲み交わし、それはそれでイメージできないことは無いのだが、再生する、即ち再び生まれるという象徴を可能とするには女性、出来れば若い乙女の力を借りるしかないのは我々の民俗や文化からして当然のことなのである。全能の神が土から我々人間を又作り上げてくれたり、最後の審判時に生前のまま再生させてくれるというような象徴は我々の民俗と文化には無いのである。

<特攻隊員の言霊と「妹の力」>
 軍隊、特に特攻隊という閉塞した機密に属する任務についている青年隊にとって高等女学校の生徒なんてものは夢のような存在であったはずである。性的なあこがれ、欲求も当然あったであろうし、又産む性である女学生らに対する神秘性や先にふれた「妹の力」つまり、オナリ神的信仰的な面もあったのではなかろうか。当時特攻隊の青年の中には、我々日本人の持つ信仰「言霊」と「妹の力」を信じれる人々がかなりいたのである。以下そのことを、例のドラマにそってふれてみたい。

 さて、例えば、特攻機に乗り込む間際に飛行場の片隅にあった小石を自分のことを憶えておいて欲しいために自分の形見として一人の少女に渡したエピソードが印象的であった。また、岡安という特攻兵がトラックの台上に乗って帰宅する女学生の一団に、トラックのふちにぶらさがって「なでしこ隊ありがとうな、ありがとうな」と何度も叫びながら涙を流したエピソードがつづられている。さらにまた本島少尉という青年は、爆弾がはずれたために出撃に失敗したのだが、少女らの前で男泣きに泣いた話もつづられている。このように軍事の機密に属することを少女らの前で言うという彼らの追いつめられた心理もさることながら、彼女らに対してこそ言っておかねばならないという心理が働いたと考えるべきで、それが「言霊」であり、「妹の力」と考えるべきではなかろうか。
 さらに、この本来教師になりたかった本島少尉は、なでしこ隊の一人でこのドラマの原作者と言ってよい前田笙子さんの自宅をあるとき訪れ、この少女をある学校へ連れ出しそこで数学の授業を行ったエピソードが詳細にえがかれている。授業が終わって自分が(この世に)居たことを憶えていてくれと言って彼は号泣するのであるが、このようなことはすぐに死へと赴く特攻隊員という立場を考えてみても少し分かりにくいところがあって当然である。しかし、前田笙子さんが嘘をつくはずのものではなく本当にあったことなのである。恐らく彼女もこの授業をした話は日記の中には当然書いてあったものだか、世間に公表することをはばかっていたものと思われる。その理由として考えられることの一つは、このことが彼女らなでしこ隊の任務である掃除や洗濯という身の回りの世話をするという範囲を越えているからであり、もう一つは誰もが思うように本島少尉という二十代になったばかりの青年の彼女に対する恋心というものが当然取りざたされることに対する恐れである。そのような受け取り方をされた場合の本島少尉の名誉を思ってのことであったかもしれない。しかし、八十歳半ばを越えられ彼女にこのことを発表することが本島少尉の霊に報いることになるのだと、それこそ決意されたのは何故であろうか。
小生は、そのことを今しばらく考えてみたい。それは、本島少尉が言葉や写真や授業として彼女に託したものは、死への恐怖による面もあるし、彼女への恋心による面もあるであろう。しかし、十五歳の少女にこれらのことを託したのは、本島少尉が彼女の「妹の力」を信じ、且つ言霊としての言葉を彼女に投げかけたのだという点を忘れてはならない。八十歳半ばになって彼女はこのことに気づいたということなのであろう。十五歳の時には分からなかったかもしれないが、三十歳にでもなれば、この「妹の力」という我々日本人の持つ神話は当然無意識にしろ分かっていたのであろう。しかし八十歳代半ばという今になって彼女は本島少尉のエピソードつまり「妹の力」を信じ言霊を信じて自分に語りかけてきた本島少尉の物語を語り残しておく責任を感じたのではなかろうかと筆者には思われるのである。
 本島少尉が彼の写真の裏に「明日知れぬ命野菊に静かな 特攻隊」(本島少尉)と書いて彼女に送ったことについて、彼女は次のように述べている。
 「明日出撃か、いや明後日かもしれないと切羽詰まった状況でお気持ちを訴えられていらっしゃるような気がするんです。(彼女に対して)野菊の静かさで癒される意味で、よりもっと強いものですけれど、野菊は、もしかしたら私かもしれません」つまり、六十数年の歳月を経て本島少尉の信じた「妹の力」と「言霊」は彼女を通して出現したと言えるのである。
 また話は戻るが、そもそもこのような「なでしこ隊」のようなものを組織した人(とりあえずは校長と思われる)は、どこまでかは知らないけれども「妹の力」という我々の民俗を理解していたからこそなしえたことである。さらにその少女前田笙子さんの祖父が自己の孫娘と特攻隊員の個人授業を許したということも、単に死地に赴く特攻兵だからという理由だけではなく「妹の力」を信じすがっている一青年をよく理解しうる共有した神話を持っていたからに他ならない。
 もうおわかりのように以上は単なる恋の物語ではない。ましてや今はやりの「世界の中心で愛を叫ぶ」の話ではない。「妹の力」と「言霊の力」を信じている我々の親や祖父母の話なのであり、実は今もなお日本人が最後の最後に何を信じているかという話なのである。

<現代の「妹の力」=レンタル姉さん>
 ここで現在も「妹の力」が我々日本人に大きな神話力としてはたらいている例を上げておこう。最近いわゆる「引きこもり青年」を訪問し社会復帰させる妙齢の女性達がいるが、このような特攻隊の青年達とはまた違った意味で危機に陥った青年達を救うために彼女たちが「妹の力」として活躍している。この訪問活動を主役として担っている女性のことは「レンタル姉さん」と呼ばれている。(拙論 雑誌「自由」平成19年6月号 「引き籠り」訪問活動者-「レンタル姉さん」に「妹の力」を見る-)
それは、姉妹が兄弟を守るという我々の間に今も強く残る民俗的心性である。西欧の姉さんでは、そのような自信はもちえないであろう。

    このように彼女らの使命感や自信の背後に、彼女らの背中を押している日本の歴史や民俗を感じたのは筆者だけではないだろう。そう、彼女らの存在(活動)は、「妹の力」なのだ。というのは、彼女らが助け救わんとしているのは、人生の絶対的危機に陥っている男(ほとんどが青年)であるということが第一点。そして、何故引き込もり青年に対してはレンタルおじさんやレンタルおばさん、さらには後にはあみ出されるレンタル兄さんではだめなのか、ないしは効果が薄いのかという第二点を考えれば、彼女らの力量の程がしられるであろう。
もちろん、レンタル姉さんと若者とは、実の兄弟姉妹ではない。特攻隊の青年らとなでしこ隊の乙女との関係も同様である。しかし、イザナギ・イザナミ兄妹による創造神話を持つ我々の「妹」たちは、アダムのあばら骨から誕生したとされる西洋ユダヤ・キリスト教世界の女の始祖たちより、はるかに強力な力を発揮することになるわけである。
軍神と言われる特攻隊員らといわば落ちこぼれの「引き籠り青年」とを一緒にすることに驚かれるむきもあるであろう。さらに言うならば、前者は言霊の力や妹の力をどこか信じていたのに対して、後者は一般にそれらの力を信じる力量さえあやぶまれる者達であることを思えば、にわかに同一に論じえるものではないことは百も承知である。しかし、我々の民俗性や神話の類型としてはそれこそ驚くほど同じであることを喚起しておきたい。

<エピローグ>
 最後にエピローグである。小生宅から南東へ少し行くと、三木露風の墓がある。三木露風と言えば今の若者はせいぜい「赤とんぼ」を知っているぐらいであろうか。彼の詩の中に戦前に思春期をおくった人ならば誰でもが知っている詩がある。

<ふるさとの>
ふるさとの 小野の小立に
笛の音の うるむ月夜や
乙女子は熱き心にそをば聞き泣流しぬ
十年経ぬ 同じ思いに君泣くや 母となりても

 この詩を現代人ならば恐らく淡い恋の詩ととるであろう。それはそれで間違いないのだが、それだけはなくこの詩は「妹の力信仰」なるものを告白した詩と考えられる。であるから、十年経て母となっても自分(青年)の話に耳を傾けてくる乙女を信じられるのである。この詩は曲を付けられており、小生らの父親の世代の人に時々思いを込めて唄われる方々がいた。
 特攻隊の青年達も十年を経ずとも母になるだろう乙女たちに「言霊」を信じて言葉をかけ、そして「妹の力」を信じて死地に赴いたのである。











若人が最期の言葉を乙女らに
向けて語れば そをばはらまん

赴く人の最期の言葉を乙女らが
その身に はらむという言霊の国

その菊は私だったと「乙女」言い
青年の言霊 今現れり

言霊が人を滅ぼし 又救う
国もかくなり この不思議さよ

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